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キハ07ガスタービン試験車 |
試験車登場昭和41年より基礎的な研究が始まり、昭和43年にはキハ07に動力装置を搭載、翌年には磐越東線で走行試験が行われました。 この試験車は床下に小さなエンジンと大きな給排気装置を積んでいました。はじめてその姿を見たとき、300馬力ほどのありふれた性能の気動車だろうと思いましたが、実はそのエンジンは1000馬力以上もあったのです。なんと床下に連続定格1050馬力のガスタービンが搭載されていました。毎分二万回転近くで回るタービンはディーゼルの数十分の一の大きさしかなかったのです。車両自体のトン当たり出力は30馬力を超え、後述のKTF1430搭載車ではトン当たり出力は40馬力に迫ります。まさに機関車級の性能で、動車ではありえないものでした。何しろ当時の主力機関車DD51のトン当たり出力を気動車が凌駕してしまったわけです。そして最高速度は150km/hというとんでもない設定だったのです。
次の図は動力試験台で計測された速度と引張力の実測値です。 153km/hで1845kgの動輪周引張力を発生しており、動輪周出力は1000馬力を超えています。
加速余力は十分ですから速度向上試験をもしやっていたら優に160km/hを超えていたはずで、未だに破られることのない国内気動車最高記録を樹立していたでしょう。もちろんレブリミッタの設定次第ですが。 ディーゼル動車がこの速度に達するのは20年以上も待たねばなりませんでした。平成1年、660馬力のエンジンを積み減速比を変更して高速対応とした183系が153.5km/hを樹立、国内気動車最高記録となったのです。なにはともあれ130km/h運転が目標であった当時にこのような設計をしたとは、遊び心かもしれませんがいかにガスタービン車への期待が大きかったかがうかがえます。 実際の走行試験は磐越東線で行われました。しかも最高速度は在来車と同じ、たったの85km/h。速度が遅いほど燃費が悪くなるガスタービン車をのろのろ運転。その上自分よりも重いキハ58を1両エンジンカット状態で従えてのろのろ走ったたわけで、ディーゼル動車の2倍ほど燃料を食ったようです。
当時の試運転を鉄道ファン誌が取材しています。記事には「キハ181系2両分に匹敵する1000馬力という大出力にものを言わせてぐんぐん加速する」という一文があります。さすがにこれはいくら当時の車両が非力なものが多かったとはいえ過大表現でしょう。キーンという鉄道車両離れした音と1000馬力という先入観から記者も思わず書かずにはいられなかったのでしょう、150km/h設定の変速機もない直結1段の車両にキハ58を死重で引かせたままこのような低速領域で試験をおこなったのでは”他車とは明らかに違う加速力”というものを体感することはなかったでしょう。低速では151系こだま並の加速がせいぜいといったところです。もちろん高速域、例えば100キロからの加速といった場面が与えられていたら明らかにこれまでの車両、気動車はもちろん電車と比べても”違い”を感じられたことでしょう。そしてもしこれが単行で走っていれば、たとえ低速でも重量と上の引張力特性からわかるように別次元の加速とはなっていましたが。 その翌年にはガスタービンを変更、減速機構自体を機関に内蔵した1200馬力の川崎重工の別機種(KTF1430)とし床上搭載に変更して試験しました。 上の動画の後半に登場する車両はこれです。前頭部下端、スカートに接する部分に帯が入っているので区別できます。床上機関搭載となったため床下がスカスカになっているのが走行場面からわかります。
減速機内蔵機関を搭載した関係か、将来のまじめな運転速度を想定してのことか結果的(?)に減速比が大きくなりました。試験は初代と同一区間で行われましたが、このときは減速比が大きいため燃料消費は2割以上少なくなった一方、測定装置を満載状態の積車でも軸重が9トンを切るような軽量車両のため1200馬力では2軸駆動台車が空転してしまうため、最大出力を800馬力に絞って走行試験が行われたようです。 キハ391では機関が床上搭載となりましたがKTF1430は採用されず、石川島播磨重工(現IHI)のCT58ライセンス生産機種が採用されることとなります。 |